マルクス・アウレーリウス『自省録』(神谷美恵子訳)を読みました。

【読書日記】『自省録』マルクス・アウレーリウス。神谷美恵子訳
本の概要
本書は古代ローマ皇帝、マルクス・アウレーリウスが自分のために書き続けた「瞑想記録ノート」。
マルクスが実践していた、ストア哲学や人生訓について書かれている。
「心の平静を取り戻して、善く生きるための方法」が学べる1冊。
翻訳者の神谷美恵子さんについて
大正~昭和にかけて活躍した日本の精神科医。
本業のほかに、哲学書の翻訳や本の執筆をしていた。
神谷さんの著書『生きがいについて』では、精神科医としてハンセン病患者と関わってきた経験をもとに「人間の生きがいとは何か?」について考察している。
平穏無事なくらしにめぐまれている者にとっては思い浮かべることさえむつかしいかも知れないが、世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということがおそろしくてたまらない人があちこちにいる。ああ今日もまた一日を生きて行かなければならないのだという考えに打ちのめされ、起き出す力も出て来ないひとたちである。耐えがたい苦しみや悲しみ、身の切られるような孤独とさびしさ、はてしもない虚無と倦怠。そうしたもののなかで、どうして生きて行かなければならないのだろうか、なんのために、と彼らはいくたびも自問せずにいられない。
神谷美恵子『生きがいについて』より
マルクス・アウレーリウスについて
紀元1世紀~2世紀に在位した、ローマ五賢帝の1人。
争いごとは好まず、哲学と瞑想が好きな内向的な人だった。
アウレーリウスを含め、五賢帝が国を統治した時代が「人類が最も幸福だった時代」と言われている。
学びになったこと
ストア哲学について
これ以上理性を奴隷の状態におくな。利己的な衝動にあやつられるがままにしておくな。また現在与えられているものにたいして不満を持ち、未来に来るべきものにたいして不安をいだくことを許すな。
ストア哲学では「自分次第のもの」と「自分次第ではないもの」を分けます。
自分次第のものは「物事をどう判断するか?」という理性です。
それに対して、自分次第ではないものは「健康、富、名誉」など。
理性を奴隷の状態にすると、自分次第ではないものに心を奪われ、不安・ストレスを感じます。
自分次第のものに集中して、自分次第ではないものに心を奪われないようにするのが、ストア哲学です。
理性によって物事を判断して、何事にも動じない精神を「不動心(アパテイア)」と言います。
ストア哲学について学ぶなら、エピクテトスの人生談義が分かりやすいです。
「他人にどう思われているか」は気にしなくていい
他人の魂の中に何が起こっているか気をつけていないからといって、そのために不幸になる人はそうたやすく見られるものではない。しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる。
「あの人は自分のことをどう思っているのか」つい気にしてしまうと思います。
他者からの評判は「自分次第ではないもの」なので、考えないのが原則です。
「他人はどう考えているか?」を気を付けていないからといって、自分が不幸になることはありません。
しかし「自分はどうしたいのか?」という、自分の魂の動きを考えないと、本来の自分から遠ざかって不幸になります。
「いまの自分は善く生きているか?」自分の魂の動きを注意深く見守ることが大事です。
自分の内部に重心を持つこと
曇りなき心を持ち、外からの助けを必要とせず、また他人の与える平安を必要とせぬように心がけよ。(人に)まっすぐ立たせられるのではなく、(自ら)まっすぐ立っているのでなくてはならない。
自分の幸福を外部ではなく、内部に持っておくことが大事だと思います。
なぜなら、自分の幸福を外部に頼ってしまうと、それを失ったときに不幸になってしまうからです。
たとえば、家族や友人、富や名声など。
自分の幸福を外部に依存すると、家族を亡くしたり、名声を失ったときに不幸になります。
逆に、自分の幸福を内部(学問に従事するなど)に持っておけば、自分が死ぬまで幸福を失うことはありません。
哲学者のショーペンハウアーは、外部のものを必要としない人を「重心が完全に彼自身の内部にある」と言っています。
孤独を歓迎し、自由な閑暇を最高の財宝とし、それ以外はみな無くてもよいどころか、あればかえって重荷になることさえ、しばしばある。だからこのような人間についてのみ、「重心が完全に彼自身の内部にある」と言うことができる。
ショーペンハウアー『幸福について』鈴木芳子訳
私は外部のものを必要とせず「重心が自分の内部にある」ため、自らまっすぐ立つことができています。
いつ死んでも後悔がないように生きる
あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。
私は日頃から「死を意識して生きること」が大事だと思っています。
なぜなら「自分はいつまでも生きている」と考えると、本当に大事なことを後回しにして、些末なことに時間を使ってしまうからです。
現代人の多くは「若い時は働いて、やりたいことは老後にやろう」と考えていると思います。
しかし、その老後まで自分が生きている保証はどこにもありません。
私は「人間はいつ死ぬか分からない」ということを、東日本大震災のときに実感しました。
人生において大切なのは「人間はいつ死ぬか分からないため、今この瞬間を善く生きること」。
日頃から死を意識して、生きているうち、許されている間は善き人でありたいと思っています。
本質は評価によって変わらない
なんらかの意味において美しいものはすべてそれ自身において美しく、自分自身に終始し、賞讃を自己の一部とは考えないものだ。実際人間は賞められてもそれによって悪くも善くもならない。一般に美しいといわれているもの、たとえば天然の物質や人工的な製作品などについても同じことがいえる。してみれば美しいものはなにかそれ以上のものを必要とするか。否、それは法律や真理や善意や慎みの場合と少しも変らない。これらのものの中のなにがいったい賞められるから美しく、非難されるから悪くなるであろうか。エメラルドは賞められなければ質が落ちるか。金、象牙、紫貝、竪琴、短刀、小花、灌木等はどうか。
私たちは他者に非難されたとき「なんて自分はダメなやつなんだ」と自己嫌悪することがあると思います。
しかし、他者に褒められても貶されても、それ自体が良くなることも悪くなることもありません。
宝石のエメラルドは、褒められても貶されても美しいままです。
それと同じで、他者の評価によってその人の本質は変わることはないのです。
不要なことはせず、必要なことのみをせよ
「もし心安らかにすごしたいならば、多くのことをするな」という。こういったほうがよくはないだろうか。「必要なことのみをせよ。また社会的生活を営むべく生まれついた者の理性が要求するところのものをすべてその要求するがままになせ。」なぜならば、これは善い行為をすることからくる安らかさのみならず、少しのことしかしないということからくる安らかさをもたらす。というのは我々のいうことやなすことの大部分は必要事ではないのだから、これを切り捨てればもっと暇ができ、いらいらしなくなるであろう。それゆえにことあるごとに忘れずに自分に問うてみるがよい。「これは不必要なことの一つではなかろうか」と。しかし我々は単に不必要な行為のみならず、不必要な思想をも切捨てなくてはならない。そうすれば余計な行為もひき続いて起ってくる心配はないであろう。
私たちが善く生きるためには、不要なことはせず、必要なことのみするのが大事です。
なぜなら、この先何十年も生きることを前提とすると、本当に必要なことを後回しして、不要なことに時間を使ってしまうからです。
「人生は長いから、いつかやればいい」と考えて、不要なことに忙殺され、必要なことを先延ばししてしまう。
しかし、その「いつか」が来ることはないでしょう。
世の中の多くは、自分がやらなければならないと思い込んでいるだけで、実際はやらなくてもいいことばかりです。
私は日頃から「これは不要なことではないだろうか?」と自問自答して、本当に必要なことだけやるようにしています。
いつ死んでも大差はない
もしある神が君に「お前は明日か、またはいずれにしても明後日には死ぬ」といったとしたら、君がもっとも卑劣な人間でないかぎり、それが明日であろうと明後日であろうとたいして問題にしないだろう。というのは、その間の期間などなんと取るに足らぬものではないか。これと同様に何年も後に死のうと明日死のうとたいした問題でないと考えるがよい。
「今この瞬間」を善く生きている人は、明日死のうと何十年も先に死のうと、大差はありません。
常に自分にとってベストな選択をして、いつ死んでも後悔がないように生きているからです。
過去の私は世間体や社会の常識に縛られて、不要なことに忙殺され、善く生きることができませんでした。
もしその時に死んでいたら、後悔しながら死んでいったと思います。
いまの私は「今日が人生最期の日」だと思って生きているため、明日死んでも100歳で死んでも「善く生きた」ことには変わりありません。
そのため、明日死ぬのも何年も後に死ぬのも大差はないのです。
感謝して人生を終える
昨日は少しばかりの粘液、明日はミイラか灰。だからこのほんのわずかの時間を自然に従って歩み、安らかに旅路を終えるがよい。あたかもよく熟れたオリーヴの実が、自分を産んだ地を讃めたたえ、自分をみのらせた樹に感謝をささげながら落ちて行くように。
私たち人間の一生は、ほんのわずかな時間です。
どれだけ長生きしても、せいぜい100年ほど。
その僅かな時間を自然に従って生き、心安らかにあの世へ旅立っていく。
熟したオリーブの実が木から離れて落ちていくように、私たちもこの世のすべてに感謝して人生を終えるのです。
葡萄の樹のように、見返りを求めず他者に与える
ある人は他人に善事を施した場合、ともすればその恩を返してもらうつもりになりやすい。第二の人はそういうふうになりがちではないが、それでもなお心ひそかに相手を負債者のように考え、自分のしたことを意識している。ところが第三の人は自分のしたことをいわば意識していない。彼は葡萄の房をつけた葡萄の樹に似ている。葡萄の樹はひとたび自分の実を結んでしまえば、それ以上なんら求むるところはない。あたかも疾走を終えた馬のごとく、獲物を追い終せた犬のごとく、また蜜をつくり終えた蜜蜂のように。であるから人間も誰かによくしてやったら、〔それから利益をえようとせず〕別の行動に移るのである。あたかも葡萄の樹が、時が来れば新たに房をつけるように。
私が一番好きな教えです。
- 第一の人は、他人に良いことをした場合、見返りを求める
- 第二の人は、あからさまに見返りを要求することはないが、それでも心のどこかで見返りを求めている
- 第三の人は、自分のした善行を意識せず、見返りを求めない
第三の人は、葡萄の樹のように人に恩恵を与えるだけで、見返りを求めていません。
私は残りの人生を、葡萄の樹のように見返りを求めず、他者に与える人生にしたいと思っています。
変化を恐れる必要はない
変化を恐れる者があるのか。しかし変化なくしてなにが生じえようぞ。宇宙の自然にとってこれよりも愛すべく親み深いものがあろうか。君自身だって、木がある変化を経なかったならば、熱い湯にひとつはいれるだろうか。もし食物が変化を経なかったならば、自分を養うことができるだろうか。そのほか必要な事柄のうちなにが変化なしに果されえようか。君自身の変化も同様なことで、宇宙の自然にとっても同様に必要であるのがわからないのか。
人は安定した生活を好み、変化を恐れがちです。
しかし、変化なくして新しいものが生まれることはありません。
木は薪や木炭になることで燃料となり、お湯が沸かせます。
作物は成長することで、私たちの食料になります。
このように、私たちが生きていくうえで、変化は必要なことなのです。
今日が人生最期の日だと思って生きる
あたかも君がすでに死んだ人間であるかのように、現在の瞬間が君の生涯の終局であるかのように、自然に従って余生をすごさなくてはならない。
私たちは、この先何十年も生きることを前提として、人生設計しがちです。
しかし、自分が平均寿命まで生きれる保証が、どこにあるのでしょうか。
事故・災害・病気によって、人は簡単に死にます。
私たちが死ぬ瞬間に後悔せず生きるためには、今日が人生最期の日だと思って生きなくてはなりません。
いつ死んでも後悔しないように「今、この瞬間」を生きることが大事です。
感想
私たちが「善く生きる」ためには、どうすればいいのか。
本書には、そのヒントが散りばめられていると思います。
死を意識して「いつ死んでも後悔がないように生きること」が、善く生きることに繋がるでしょう。
「生きているうちに、許されているうちに、善き人たれ」
いまの私は、多くの人に支えられて「生きることを許された状態」です。
マルクスの生き方を参考にして、生きているうち、許されている間は「善き人」でありたいと考えています。


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