哲学者エミール・シオラン『生誕の災厄』を読みました。

【読書日記】エミール・シオラン『生誕の災厄』出口裕弘訳
本の概要
「ペシミストたちの王」と呼ばれた哲学者、エミール・シオランの反出生主義について書かれた本。
この世は苦痛に満ちているため、人間は生まれないことで救済される。
シオランが考える反出生主義の思想について学べる1冊。
学びになった点
シオランの反出生主義
どうしたこんな始末になったのだ? ──生れてきたからだ。
エミール・シオラン『生誕の災厄』出口裕弘訳
ある特殊な様相をした不眠の夜こそが、生誕をめぐる争論に火をつけるのである。
「私がこの世に生を受けて以来─」この以来が、私にはなんとも恐ろしい意味を持つものと見える。あまりにも怖ろしく、ついにはとても承認しがたいものとなるような意味を。
たしかに、生誕を災厄と考えるのは不愉快なことだ。生まれることは至上の善であり、最悪事は終末にこそあって、決して生涯の開始点にはないと私たちは教えこまれてきたではないか。だが、真の悪は、私たちの背後にあり、前にあるのではない。これこそキリストが見すごしたこと、仏陀がみごとに把握してみせたことなのだ。「弟子たちよ、もしこの世に三つのものが存在しなければ、〈完全なるもの〉は世に姿を現さないであろう」と仏陀はいった。そして彼は老衰と死との前に、ありとあらゆる病弱・不具のもと、一切の苦難の源として、生れるという事件を置いたのである。
(同前)
出生の罪を、私は自分に許すことができない。この世に忍びこむことによって、まるで私はある宗教的玄義を瀆し、なんらかの重大な契約を破り、名づけようもない由々しい過ちを犯したかのようだ。ただ、時としては私もそれほど一刀両断式に考えぬことがある。そうしたとき、生れるとは、 もし知らなかったら悔しさで身も世もないような悲運、という風にも映るのである。
(同前)
生れないこと、それを考えただけで、なんという幸福、なんという自由、なんという広やかな空開に恵まれることか!
(同前)
生誕と鉄鎖とは同義語である。この世に出てくることは、手錠をかけられることだ。
(同前)
(中略)出生しないということは、議論の余地なく、ありうべき最善の様式だ。不幸にしてそれは、誰の手にも届かぬところにある。
シオランは反出生主義者でした。
反出生主義とは「人間を生むことは悪として、出生を反対する思想のこと」です。
シオランは「生まれないことで救済される」と考えていました。
この世は苦しみに満ちているから、生まれないことが救済になる。
まだ生まれていない人たちは、すでに救われている。
つまり、子どもを生まないことは、生まれていない人たちを救済されたままにすることである。
だから私たちは、子どもを作るべきではない。
シオランはこのような思想を持って、一貫して出生を反対しています。
反出生主義に関しては意見が分かれるところですが、どちらかというと私は賛成派です。
怠惰の美徳について
私たちに健全な部分があるとすれば、それはすべて私たちの怠け癖の賜物である。行為に移ることをせず、計画や意図を実行しようとしない無能力のおかげである。〈美徳〉を養ってくれるのは、実現の不可能性、あるいは実現の拒否だ。そして、全力を出し切ろうとする意志こそが、私たちを暴虐へと誘い込み、錯乱へと駆り立てるのである。
シオランは怠惰を美徳として、賞讃しました。
なぜなら、社会で犯罪を犯すのは、怠惰な人間ではなく勤勉な人間だからです。
怠惰な人間は行為そのものを拒否するため、なにか悪だくみを企てても実行しない。
逆に、勤勉な人間は計画を立て実行する能力があるため、悪だくみを実行してしまう。
「動機や意図に従って計画を立て実行する」というのが社会活動の特徴であり、犯罪と共通しています。
つまり、犯罪を犯すのは怠惰な人間ではなく、勤勉な人間ということです。
怠惰な人間は行為に移ることをせず、計画や意図を実行しようとはしません。
全力を出そうとする勤勉な人間の意志が、人々を暴虐へと誘い込み錯乱へと駆り立てるのです。
隠遁のすすめ
一定の年齢に達したら、人間は名前を変えて、どこか目立たぬ一隅に隠れ住むべきである。誰とも面識がなく、友人や敵に再会する危険もまたなく、仕事に飽きつかれた悪人のようにして、安らかな生涯を終えられる場所に。
(同前)
シオランは、一定の年齢になったら隠遁することを勧めています。
私の杵築市セミリタイアが、まさにそれです。
誰とも会う危険がない場所に隠れて住み、安らかな生涯を終えるようにしています。
仕事をしないことを責めてはいけない
仕事をしていないという理由から、少々我が身を責め過ぎるようなことがあると、俺はもう死んでいて少しもおかしくないのだ、と考える。かくてますます仕事をしなくなる。・・・
(同前)
シオランは労働が大嫌いだったようです。
執筆活動から得られる僅かな稼ぎと、教師をしていた奥さんの給料で生活していました。
おそらく、この文章は仕事をしていない自分を表現したものでしょう。
仕事をしていない自分を責めてしまうと、希死念慮が芽生える。
そして、生きる意欲を失ってますます仕事をしなくなる。
シオランと同じように、労働を拒絶して生きる意欲が低い私にも共感できる内容です。
死という名の褒賞
死は、失敗の好みを持ち、天分を持つような人間の庇護者である。成功を収めなかった者、成功への執念を燃やさなかったすべての者にとっては、一個の褒賞である。…死はその種の人間のほうに理ありとする。死は彼らの勝利なのだ。逆に死は、成功のために骨身を削り、ついに成功を収めた人間たちにとって、なんという残酷な否認、なんという痛烈な平手打ちであることか!
死は成功を収めなかったもの、成功への執念を燃やさなかった人にとっては「褒賞」になります。
人生で成功できず失敗続きだった人、敗北してきた人でも、死によってすべての人間は平等となり、彼らは救われるからです。
これをシオランは「死は彼らの勝利なのだ」と言っています。
逆に、成功者を収めた人、成功するために骨身を削った人たちにとっては、褒賞ではなく懲罰に近いです。
死は彼らから、これまで獲得してきた成功を容赦なく奪い去っていきます。
死は成功者に対して残酷な否認、痛烈な平手打ちと言えるでしょう。
感想
シオランの本はどれもネガティブなことばかり書かれています。
私はシオランの本を読むと、
「シオランみたいにネガティブな人でも生きていたから、もうちょっと生きてみようかな」
と、生きる勇気をもらえます。
私と同じようにネガティブな人は「ネガティブな人が書いた本」がおすすめです。

