『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』を読みました。

【読書日記】『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳
本の概要
この本は、三十年以上にわたってピダハンとともに暮らし、学んだことをまとめたものだ。その三十年、わたしは精一杯の努力をして、彼らが世界をどう見、どう理解し、どのように言葉にしているかを理解し、そこから得たことを自分の研究仲間たちに伝えようとしてきた。
【読書日記】『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット著 屋代通子訳
本書は、言語学者のダニエルがブラジルの先住民族「ピダハン」と、30年以上ともにした暮らしを記録したもの。
ピダハンは現代人の半分ほどの寿命で、原始的な暮らしをしているが「世界一幸福な民族」と言われている。
ピダハンが幸福な理由は「直接体験の原則」に基づいて生きているからである。
「世界一幸福な民族ピダハンが実践する、幸せに生きる秘訣」が学べる1冊。
学びになった点
ミニマルな暮らし
ピダハンの物質文化が、世に知られているなかでも最も簡素な部類に入るものであることはわかっていた。道具類をほとんど作らないし、芸術作品はほぼ皆無、物を加工することもまずない。彼らが使う数少ない道具のうちでおそらく1番目につくのは、大型で強力な弓と矢だろう。
(同前)
ピダハンは、かなり質素な暮らしをしています。
- 食べ物は川で獲れた魚や、森で採れた木の実
- 家は杭でヤシの葉っぱの屋根を支えただけのもの
- モノはほとんど持たず、狩猟のときに使う弓ぐらい
ピダハンの暮らしは無駄を削ぎ落した、生きていくために必要最低限の「ミニマルライフ」だと思います。
「ありがとう」も「ごめんなさい」も無い
ピダハン語で真っ先に興味を引かれたのは、言語学で言う「交感的言語使用」が見られないことだった。
(同前)
交感的言語使用というのは、主として社会や人間同士の関係を維持したり、対話の相手を認めたり和ませたりといった働きをする。
「こんにちは」「さようなら」「ご機嫌いかがですか」「すみません」「どうしたしまして」「ありがとう」といった表現は、これといった新しい情報を提供するものではなく、むしろ善意を示したり敬意を表したりするものだ。
ピダハンの文化は、こうしたコミュニケーションを必要としていない。
ピダハンの表現は大まかに言って、情報を求めるもの(質問)、新しい情報を明言するもの(宣言)、あるいは命令のうちどれかだ。
「ありがとう」や「ごめんなさい」に相当する言葉はない。
ピダハンには「交感的言語使用」が無いそうです。
交感的言語使用とは「こんにちわ」「ありがとう」といった、善意や敬意を表す言葉のこと。
相手の機嫌を取る必要がないので、気楽で良いと思います。
ボルネオ島の狩猟採集民「プナン」も、ピダハンと同じで「ありがとう」「ごめんなさい」に値する言葉はありません。
ピダハンとプナンの文化は近いものがあります。
労働時間は週20時間
1日に四時間から六時間漁をすれば、二十四時間一家を食べさせるのにほぼ充分なタンパク質が取れる。
(同前)
(中略)
収穫や採集は女の仕事だ。
ピダハンに多い四人家族を食べさせるのに、一週間に十二時間くらいがこの仕事に充てられる。
ということは、漁や採集に費やされる時間は一週間あたり四二時間で、これを父親と母親、子どもたち(時には祖父母)が分担し、誰もが一週間に十五時間から二十時間程度「働」けばいいということになる。
もっとも漁も採集もピダハンにとっては楽しい活動で、西洋文化でいう労働の概念とは相いれないのだが。
ピダハンたちは、週20時間ほど働けば生きていけるそうです。
労働の内容も、男は川で魚をとる狩猟、女性は森の中で木の実をとる採集など。
どちらも労働というよりは、娯楽の一環となっています。
日本やアメリカなど、先進国とは真逆の働き方です。
私の考えでも、週20時間ぐらいの労働がちょうどいいと思っています。
直接体験の原則について
わたしは次第に、ピダハンは未来を描くよりも1日1日をあるがままに楽しむ傾向にあると考えるようになっていったが、ピダハンの物質文化には、その説を裏付けてくれる特徴がほかにも数々見られる。
(同前)
将来よりも現在を大切にするため、ピダハンは何をするにも、最低限必要とされる以上のエネルギーをひとつことに注いだりしない。
わたしは直接体験の重要性を支持してくれそうなあれこれも思い出していた。
(同前)
たとえば、ピダハンは食料を保存しない。その日より先の計画は立てない。遠い将来や昔のことは話さない。どれも「いま」に着目し、直接的な体験に集中しているからではないか。
ピダハンが直接体験と観察にひじょうに重きをおいていることは知ってのとおりだ。
(同前)
ただピダハンには、「見ることは信じること」であるばかりでなく、「信じることは見ること」でもある。
ピダハンは「直接体験の原則」に基づいて暮らしています。
直接体験の原則とは「自分が直に体験したこと、自分の眼で見たこと」を重視する生き方のこと。
たとえば、ピダハンは将来の備えて食料を保存したり、その日より先の計画を立てたりしません。
未来のことはまだ「未体験」であり、いまの自分には無関係だからです。
食べ物なら「無くなったときに、森に行って取ってくればいい」という感じです。
未来を見据えて計画を立てるのではなく、自分が体験したときにその都度対応します。
ピダハンは直接体験の原則によって、その日より先の計画を立てず、1日1日を生きることに集中しています。
世界一幸福だと言われる理由
わたしたちが抱く心配事の多くは、文化的文脈とは関係ない、生物としての人間だからこそ生じる心配事であるからだ。
(同前)
(文化はそれ自体では言葉になりにくいが、現に存在する心配事に意味を与える)。
だが、ピダハンはたいていそうした生物としての心配事にもとらわれず生きている。
なぜなら一度に一日ずつ生きることの大切さを独自に発見しているからだ。
ピダハンはただたんに、自分たちの目を凝らす範囲をごく直近に絞っただけだが、そのほんのひとなぎで、
不安や恐れ、絶望といった、西洋社会を席捲している災厄のほとんどを取り除いてしまっているのだ。
ピダハンの言語と文化をもっとよく見ると、同様にわたしたちには教訓となりそうな事実がまだある。ピダハンには、抑うつや慢性疲労、極度の不安、パニック発作など、産業化の進んだ社会では日常的な精神疾患の形跡が見られないことだ。(中略)
村にいるとき、わたしの暮らしはピダハンたちよりずっと気楽なはずなのだが、慌てふためくようなことがいまだに多い。違いは、わたしは慌てふためくが、彼らは慌てないということだ。
(同前)
わたしはピダハンが心配だと言うのを聞いたことがない。
というより、わたしの知るかぎり、ピダハン語には「心配する」に対応する語彙がない。
ピダハンの村に来たMITの脳と認知科学の研究グループは、ピダハンはこれまで出会ったなかで最も幸せそうな人々だと評していた。
ピダハンは「世界一幸福な民族」と呼ばれています。
その理由は、前述した「直接体験の原則」に基づいて生きているからです。
ピダハンは直接体験の原則によって、1日ずつ生きることに集中しています。
そのため、将来の不安や恐れといった、現代人が抱える悩みを払拭しているのです。
ピダハンの生活は過酷なもので、タランチュラが頻出したり、マラリアになって亡くなったり、命の危険が日常茶飯事です。
また、現代人に比べてピダハンは寿命が半分ぐらいしかありません。
それでもピダハンが幸せなのは、
「直接体験の原則によって『いま、この瞬間』を生きて、そのとき起こった出来事を受け入れているから」
です。
起きたことを受け入れているから、トラブルになっても慌てることはないし「心配する」という言葉もありません。
ピダハンは禅的な生き方を、自然と実践しているように見えます。
感想
ピダハンは直接体験の原則によって、将来のことを考えて不安や心配を感じることはありません。
そのため、うつ病やパニック障害などの精神疾患は1人もいないそうです。
対して、現代人の多くは、将来に対する不安や恐怖で、精神疾患になる人は多いと思います。
それは先のことを考えすぎて、不安や心配事を自ら作ってしまうからです。
仏教でいう「妄想(現実に起きていないことを考えて、不安や心配事を頭の中で生み出すこと)」している状態ですね。
ピダハンの直接体験の原則を見習って「いま、この瞬間」に集中して1日1日を生きれば、将来の不安に怯えることは無くなるでしょう。


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