著者紹介
一般に人間は労働過剰であって、この上さらに人間であり続けることなど不可能だ。労働、すなわち人間が快楽に変えた呪詛。もっぱら労働への愛のために全力をあげて働き、つまらぬ成果しかもたらさぬ努力に喜びを見出し、絶えざる労苦によってしか自己実現はできぬと考える──これは理解に苦しむ言語道断のことだ。
『絶望のきわみで』より
ルーマニア出身の哲学者。
徹底した悲観主義(ペシミズム)の持ち主で、「ペシミストの王」と呼ばれている。
定職(高校教師)に就いたのはたったの1年だけで、一部を除き売れない作家として過ごし、経済的には妻シモーヌに支えられていた。
22歳で書いたデビュー作『絶望のきわみで』から、71歳で書いた『告白と呪詛』まで、一貫して労働を拒否し怠惰を礼賛している。
『生誕の災厄』『カイエ』など、多数の著書がある。
本の概要
エミール・シオランの思想を学べる入門書。
シオランの思想は徹底した悲観主義(ペシミズム)にある。
「勤勉な人間が人を殺す」「自殺を意識すれば、生きる力がもらえる」など。
生きづらさを感じている人なら、思わず頷いてしまう哲学が詰まっている。
「シオランも自分と同じ、生きづらさを抱えていたんだ」と知ることで、生きる活力を与えてくれる1冊。
こんな人におすすめ
学びになった点
労働の拒否と怠惰の礼賛
怠惰とは何か?
「ああ、また一日が始まった、またこの日に耐え、この日を終えなければならないのか」と考えねばならない苦しみにまさる苦しみはないでしょう。
怠惰とは「何かを開始する、行為そのもの」を拒否することです。
怠惰の内容は、以下の3つに分類されます。
- 行為の拒否→何もしたくない
- 開始の拒否→何も始めたくない
- 存在の拒否→そもそも生きたいと思わない
個人・社会の維持および、生産に対して気が乗らない人間が「怠惰な人間」ということです。
「朝だ、そろそろ起きないと…。眠いから起きたくない。起きたらあれをやって、次にこれをやって…ああ面倒だ、何も始めたくない。別に生きたいとは思わないけど、死ぬのも嫌だから仕方なく生きよう…」
怠惰な人間の思考は、大体こんな感じです。
世間は怠惰より人殺しに寛大
世間の人は、あらゆる行為から解放された精神に対してより、人殺しに対するほうが寛大である。
シオランは「世間の人は、無職で何もしない人間より、人殺しに対するほうが寛大だ」と言います。
理由は二つあって、
- 無職は社会が求める役割を果たしていない
- 殺人と社会活動は共通している
からです。
1はそのままの通り、無職は社会の維持・生産といった社会的役割を放棄しているため、非難されます。
2の場合、「動機や意図に従って計画を立て、選択し決断する」という社会活動の特徴と、凶器やアリバイなど殺人の計画を立てることが共通しているのです。
つまり社会において、「『何もやりたくない』と叫ぶ無職」より「動機に基づいて計画を立て、実行する人殺し」のほうが、社会活動と共通しているため受け入れられる、ということになります。
「俺は何もやりたくない」と叫ぶことは、社会にとって人殺しより不気味で、常軌を逸したものとみなされます。
世界の錯乱に同調しない怠惰
私たちに健全な部分があるとすれば、それはすべて私たちの怠け癖のたまものである。行為に移ることはせず、計画や意図を実行しようとしない無能力のおかげである。
すべての悪は「人に暴力を振るう」「騙してお金を奪い取る」など、行為によって生まれます。
つまり、悪を避けたいと思うなら、あらゆる行為を拒否する「怠惰な人間」になる必要があるのです。
怠惰になって何もしなければ、悪は生まれません。
犯罪を犯すのは「怠惰な人間」ではなく、エネルギーに溢れた「勤勉な人間」です。
「人に危害を加えず、悪を生み出さない」という点で、「怠惰は美徳」になります。
怠惰な人間は面倒くさがり屋なので、犯罪の実行はおろか、計画すらできません。
逆にエネルギーに溢れた「勤勉な人間」「意志の強い人間」は、容易にやってのけるのです。
自殺の観念の効用
死んだほうがよいと思ったとき、いつでも死ねる力があるからこそ、私は生きている。自殺という観念をもたなかったら、ずっと以前にわたしは自殺していたであろう。
「私たちは、望めばいつでも人生を終わりにすることができる」
自殺という逃げ道を用意することには、二つのメリットがあります。
- 自分の人生を自分で支配している感覚が生まれる
- 残りの人生が一種の余生となる
自分の人生を自分でどうにかできる機会は、そう多くありません。
しかし、自殺だけは自分の意志で自由に選択できます。
また、自由な逃げ道を用意することで、それ以降の人生は「余生」となるのです。
「いつでも人生を終わりにできるなら、それまで頑張って生きてみよう」こう考えることで、生きる活力が湧いてきます。
「自殺の観念の効用」を的確に表しているのが、鶴見済さんの著書『完全自殺マニュアル』です。
鶴見さん曰く、この本には「いざとなった死ぬ事もできると思えば、楽に生きていける」という思いが込められているそうです。
実際読んでみると「色々頑張ってみて、どうしてもダメだったら死ねばいいか」と思えて、不思議と前向きな気持ちになります。
鶴見さんの『完全自殺マニュアル』は「心のお守り」として、希死念慮に迫られたとき読み返しています。
憎悪とは力である
憎しみとは感情ではなく力であり、多様性の要因であって、存在を犠牲にして個々の存在を生かすものである。
怠惰はあらゆる行為を拒否しますが、仕事をせず、ご飯が食べれなくなったら人は死んでしまいます。
生きていくためには、何かしら行動しなければなりません。
「怠惰な人間は、どうすれば行動できるようになるのか?」
シオランは「憎悪をうまく活用することだ」と言っています。
例えば、故・経済評論家の山崎元さんは執筆活動をする際「金融業界に対する怒りが原動力だ」と言っていました。
金融業界への怒り、すなわち憎悪を活動のエネルギーに変換していたのです。
私の場合、人生から自由を奪う「労働に対する憎悪」を利用して、「なるべく働かずに生きる方法」を発信しています。
労働を憎悪することで「どうすれば働かずに暮らせるのか?」を考えて行動する力が生まれ、今の生活を手に入れることができました。
人を直接攻撃するような憎悪ではなく、内に秘めた静かなる憎悪を利用することで、行動力につながります。
解脱は人生を克服する
自由を取り戻そうとするなら、感情という重荷を下ろすこと。感覚によって世界に反応することをやめること、そしてあらゆるきずなを断ち切ることを考えねばならない。
解脱とは「感情という重荷」を下ろして、何事にも執着しなくなることです。
解脱することで、人は生きたまま人生から解放されます。
なぜなら、行為のエネルギー源となる感情を放棄することで、無為が達成されるからです。
いわば、生への執着すら無くし、生きたまま死者になることを意味します。
これを実践していたのが、日本三大随筆のひとつ『方丈記』を書いた鴨長明です。
鴨長明が書いた『方丈記』には、こう記されています。
出家遁世してからは、他人に対する恨みもないし、恐れるということもなくなった。いのちを天の支配のままにまかせているのだから、惜しんで長生きしようとも思わないし、また、生きるのがいやになって、早く死にたいとも思わない。
鴨長明『方丈記』より
「長生きしたいとは思わない。でも、早死にしたいわけでもない」
何事にも執着せず、自身の死を運命に任せる姿は、まさしく「解脱」です。
生きながらにして現世への執着を捨てる「解脱」は、人生を克服することを意味します。
私も生への執着はあまり無く、「生きたいとも思わないけど、自殺したいとも思わない」と、天命に身を任せています。
反出生主義
私は生を嫌っているのでも、死を希っているのでもない。ただ、生まれてこなければよかったのにと思っているだけだ。
シオランは子供を作ることに対して、一貫して反対の立場をとっています。
なぜなら、人生というのは苦しみに満ちているため、子供を生まないことが救済になるからです。
「人生はそもそも存在しないほうがよいものだ。私は生まれないほうがよかったし、人間も生まれないほうがよかった。だから、これ以上人間を生むべきではない。」
このような考えを「反出生主義」といいます。
死はあくまでも次善の解決策であり、最善は「最初から生まれないこと」。
この世の救済が「生まれないこと」にあるとすれば、子供を生まないことは「子供を救済されたままに留める」ということです。
反出生主義は賛否両論ですが、私もシオランと同じで「生まれてこないほうが、ラクで良かったのになぁ…」と思っています。
この本を読んで変わったこと
私は本書を読んで、生きづらさが少し軽くなりました。
シオランの思想を知ることで「生きるのが面倒だと思っていたのは、自分だけじゃなかったんだな」と思えたからです。
今の世の中で「働きたくない」「何もしたくない」と言うと、非難されるので中々声に出しずらいです。
その点シオランは、「パラサイトの生活を送りたかった」「私の夢は一生奨学金で暮らすこと」など、自分に代わって堂々と「働くのは嫌だ!」と主張してくれます。
私は特に「労働の拒否と怠惰の礼賛」の考え方が好きで、もっと怠惰な人間が増えて、世の中から争いが無くなればいいな思いました。
「なるべく働かずに生きる」という、私の人生観と一致するので、シオランの哲学はとても参考になりました。
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