- 『エピクロス:教説と手紙』
- 著者紹介
- 本の概要
- こんな人におすすめ
- 学びになった点
- 死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものは全て感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。
- 知者は、生を逃れようとすることもなく、生のなくなることも恐れはしない。なぜなら、かれにとっては、生は何らの煩いともならず、また、生のなくなることが、何か悪いものであると思われてもいないからである。
- 死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。
- 欲望のうち、或るものは自然的でかつ必須であり、或るものは自然的だが必須ではなく、他のものは自然的でも必須でもなくて、むなしい臆見によって生まれたものである。
- どんな快でもかまわずに選ぶのではなく、かえってしばしば、その快からもっと多くのいやなことがわれわれに結果するときには、多くの種類の快は、見送って顧みないのである。
- つぎに、自己充足を、われわれは大きな善と考える。(中略)どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである。
- 快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は(中略)道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないことにほかならない。
- この本を読んで変わったこと
- まとめ
『エピクロス:教説と手紙』
著者紹介
ヘレニズム期の古代ギリシャ哲学者エピクロス(紀元前341年~紀元前270年)。
「人生の目的は快(身体の健康と心の平穏)である」と説いた、「快楽主義」の始祖。
社会との関わりを避けて、「エピクロスの園」という庭園で弟子たちと共に、自足的な生活を送っていた。
その暮らしぶりは質素なもので、「水とパンさえあれば、神と幸福を競うことができる」という言葉が残っている。
本の概要
本書は大きく分けて3部構成になっています。
当記事では、メノイケウス宛の手紙(倫理学)について取り扱っています。
こんな人におすすめ
学びになった点
死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものは全て感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。
「死」というのは、実のところ何ものでもありません。
なぜなら、死は単に人間が持つ感覚を失った状態だからです。
「楽しい・嬉しい」とか「辛い・苦しい」といった感覚は、身体が持つ神経や脳細胞といったものによって生まれます。
死はそれら感覚を司る機能を失った状態なので、楽しくも苦しくもありません。
つまり、死は人間にとって何ものでもないというわけです。
「死は五感を失うだけ」と思えば、死を過剰に恐れることはなくなります。
知者は、生を逃れようとすることもなく、生のなくなることも恐れはしない。なぜなら、かれにとっては、生は何らの煩いともならず、また、生のなくなることが、何か悪いものであると思われてもいないからである。
知者は死を恐れずに、人生を楽しむことができます。
知者は生と死について、正しく理解しているからです。
生きるということ自体が好ましいものであり、死を悪いものだとは思っていません。
死ぬことを恐れず、長生きではなく自分にとって心地よく生きることを目的としています。
さながら食事を楽しむかのように、食べ過ぎず、自分にとってちょうどいい量(人生)を楽しみます。
生と死について正しく理解すれば、限りある人生を楽しむことができるのです。
「今すぐ死にたい」とは思いませんが、「頑張って長生きしたい」とも思いません。
「今、この瞬間」を苦痛なく生きることができれば、それで十分です。
死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。
エピクロスは、死を恐れる必要はないと言っています。
なぜなら、生と死は共存できないからです。
生きている時に私たちの身に死は存在せず、死んだ時に私たちはこの世に存在しません。
つまり、一生経験することのない死について、あれこれ心配する必要はないのです。
生ある我々に関わりがない「死」を、過剰に恐れる必要はありません。
自分が生きている時に「死」は存在しない。
自分が死んだ時には、自分たちはこの世にいない。
生と死は入れ違いのように、一生交わることがないのです。
欲望のうち、或るものは自然的でかつ必須であり、或るものは自然的だが必須ではなく、他のものは自然的でも必須でもなくて、むなしい臆見によって生まれたものである。
エピクロスは、人間が持つ欲望を3つに分類しました。
この中で必要なのは、「自然的で必須なもの(健康や衣食住など)」だけです。
それ以外の欲望は臆見(憶測による意見)から生まれたもので、必須ではありません。
衣食住以外の欲望を満たそうとすると、過剰な労働や競争に巻き込まれ、苦痛の原因となります。
人間にとって必要最低限の欲望だけ満たして、不要な欲望を捨てること。
そうすれば、エピクロスが考える快楽(身体の健康と心の平穏)を手に入れることができます。
どんな快でもかまわずに選ぶのではなく、かえってしばしば、その快からもっと多くのいやなことがわれわれに結果するときには、多くの種類の快は、見送って顧みないのである。
快楽のすべてを受け入れるのではなく、それらを考えて取捨選択しなければなりません。
なぜなら、快楽の種類によっては後から苦痛の原因となるからです。
逆に現時点では苦痛だとしても、将来的に大きな快楽を生み出すのであれば、受け入れるべきです。
例えば、遊びなど目の前の快楽を優先して学業を疎かにすると、大人になってから良い仕事に就けず、苦痛の原因となります。
逆に勉強を苦痛に感じたとしても、しっかり勉強すれば将来的に良い学校や会社に入れて大きな利益となります。
このように「すべての快楽を善、苦痛を悪」とするのではなく、それらがもたらすメリット・デメリットを比較して判別することが大事です。
「快楽は善だから何をしてもいい」というわけではありません。
「この快楽は、自身の幸福になりえるだろうか?」と考えて、選択する必要があります。
つぎに、自己充足を、われわれは大きな善と考える。(中略)どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためにではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである。
エピクロスは、僅かなもので満足すること(自己充足)を善としました。
自然的な欲望(衣食住)だけを手に入れるのは容易ですが、それ以外の欲望(贅沢や名声)を求めると苦痛の原因となるからです。
私の場合、必要最低限の衣食住なら月3万円もあれば事足ります。
しかし、「もっと良い家に住みたい」「もっと美味しいものが食べたい」など、必要以上の欲望を求めると過剰な労働を強いられ、苦痛の原因となります。
僅かなものだけで満足する「足るを知る」精神が大事です。
自分に足りないものを見て嘆くのではなく、自分が持っているものに目を向けて満足する思考が、人生を豊かにします。
快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は(中略)道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されないことにほかならない。
エピクロスは「人生の目的は快楽である」と主張しました。
この場合の快楽とは、娯楽や性的な快楽ではなく、身体と心に苦痛がない状態を指します。
快楽(心身の健康)を生み出すのは、贅沢や性交といったものではありません。
苦痛の原因を判断して取り除く「素面の思考」が、真の快楽を生み出すのです。
「素面の思考」をもって人生の苦痛を取り除くことで、心身の健康を手に入れることができます。
人生における快楽とは、「飢え・渇き・寒さ」といった、苦痛を取り除いた状態のことです。
この本を読んで変わったこと
死に対する恐怖が軽くなった
「私たちが生きている間は、死は存在しない。死が現実化するときには、すでに私たちはこの世にいない。」
この考えは私の死生観を養う上で、とても参考になりました。
人間は死を過剰に恐れる傾向がありますが、死を味わう時にはすでに自分の意志はこの世から消え去っています。
だから、生きている間に経験することのない「死」を恐れる必要はないということです。
死に対する恐怖をなくすことで余計な心配事を減らし、自分の人生を楽しむことができます。
人間にとって必要な欲望と不要な欲望が分かった
快楽(心身の健康)を最大限に得るには、必要な欲望だけを満たして、不要な欲望を求めないこと。
不要な欲望(贅沢、承認欲求など)を求めると、過剰な労働や他者との競争が生まれ、苦痛の原因となります。
人間にとって必要な欲望とは、「心身の健康」「人とのつながり」「最低限の衣食住」など。
私自身、心身の健康と最低限の衣食住を手に入れて、不要な欲望は捨てたことで人生の幸福度が上がりました。
人間にとって最低限の欲望だけを満たして、不要な欲望を捨て去ることが、幸福につながります。
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